
こんにちは、システム思考は、持続可能な社会に欠かせない重要な思考法です。今回は、特に自己マスタリーの動機になっているビジョンについて宮本武蔵に学びます。
ビジョンにはリスクを厭わない行動を繰り返すエネルギーがあります。
ここでは、頭で考えていたら想像もできないことが、ビジョンの実践で起こってしまう謎を江戸時代初期の剣豪宮本武蔵(吉川英治版)のインディペンデンサー期に追いかけてみます。
システム思考と5つのディシプリン
持続可能な社会(組織)には学びが重要な力を発揮します。
学習するチームの柱となるガイドランは3つと言われています(ピーター・センゲ)
- 志の育成
- 共創的な会話の展開
- 複雑性の理解
3つのガイドラインを支える5つのディシプリン(規律・領域*)
- システム思考
- 自己マスタリー
- メンタルモデル
- 共有ビジョン
- チーム学習
と言われています。(ピーター・センゲ)
*私は、ディシプリンとは、つまり「整頓」と考えています。
整頓とは、すでに整理され、必要に応じてすぐに引き出せる状態。
自己マスタリーが育つ動機
システム思考の基本を為しているのが、自己マスタリー。
自己マスタリーは将来像と現在のギャップに気づき積極的に自己研鑽に励むプロセスです。
ウイルス、自然災害に悩まされる私たちですが、裏返せば地球を痛めつけている私たちと言えなくもないのです。
自己マスタリー(self-mastery)には、動機付けとなるメンターの存在と優れたメタファーの影響は欠かせません。それに気づく私たち個人個人の力も必要です。
メンターがメンターを持っていることがより効果的です。
ダブルメンターにどんな効果があるのでしょう?
自己マスタリーのお手本
関ヶ原の戦いでの敗残兵から白鷺城に幽閉されるまでを描いた第一作。剣豪武蔵は登場しませんが、生涯のビジョンを持つに至るプロセスが描かれていて五部作中一番面白いです。
二刀を用いる二天一流兵法の開祖にして兵法家。水墨画は国の重要文化財に指定されていいます。出自は地侍(ほとんど農民です)の次男らしい。
いまの時代なら「キャリアのないフリーランサー」と考えると解りやすいでしょう。実際にはフリーランサーにもなっていないインディペンデンサー期の武蔵です。
豊臣から徳川に移り変わった混乱期をどのようにして高度な自己マスタリーに達して、武芸一筋で駆け抜けたのか、興味は尽きません。
高度な自己マスタリーに達した代表的人物である宮本武蔵。
吉川英治版「宮本武蔵」での武蔵のメンターは沢庵和尚(たくあんおしょう)と言えますが、沢庵は自分をメンターにさせるようなことをしていません。
メンターはダブル構造であって効果を発揮します。
沢庵は武蔵の先祖をメンターにさせるべく姫路城大天守3階「開かずの間」に三年間幽閉して、自己マスタリーの道に誘導します。
幽閉した部屋に置いた書物から武蔵自身にメタファーを気づかせ、自律的な成長の道を悟らせる(実践のステップにさせる)。
どこまで事実なのか、創作なのか曖昧ですが、メンターとなった先祖とは武蔵のルーツである滅びた一族。なぜ滅びたのか、その因果に気づき、その末裔にふさわしい自分よりはるかに大きな自分(=ありたい姿)と現在の無明な自分(=罪人)ギャップを埋めたい緊張感をイメージからビジョンを創造させます。
このビジョンが自己マスタリーの高みに駆り立て、武者修行の旅へ誘います。
ビジョンが実現させた一乗下り松での「1対73の決闘」
一乗寺下り松決闘跡地
「五輪書」に記述があるように、名門吉岡一門との三度の激闘、なかでも京都一乗下り松の決闘では1対73です。武術の枠を超えた殺戮の現場です。
吉岡一門は負けるはずがなく、武蔵は勝つはずがなく、勝つ保証はゼロです。
なぜ受けたのでしょう?
ビジョンに導かれて武蔵は勝算ゼロから勝機を見出します。ビジョンの真髄だと言っていいでしょう。
生き抜くという武蔵の個人ビジョンが「負けるはずがない」という吉岡一門の思い込みに勝って、ビジョンが知恵になったのでしょう。
吉岡一門のそれは共有ビジョンでなかったのです。
つまり「ビジョンとはどういうことかが問題ではなく、ビジョンで何ができるか」の生きた実例です。
武蔵の決闘では、それぞれ「兵法」がキーワードになっています。
それを持ってして「狡猾」と言われたりしますが、どうすれば「勝てるか(生き残れるか)」に打ち込めるのも、ビジョンの知恵です。
繰り返しますがビジョンは机上の空論ではありません。
「ビジョンとはどういうことかが問題ではなく、ビジョンで何ができるか」の実践と自己マスタリーのモチベーションであることが武蔵から学べます。
たとえば、持続可能な社会とは決してドリーミーなことではなく、切実な問題のはずです。切実さでなにができるのかと置き換えると、現実的な答えが引き出せます。
健康的に暮らしたいという願いは共有ビジョンである前に個人のビジョンです。
だから組織は共有ビジョンを大切にする前に個人のビジョンを大切にします。
個人のビジョンを持たない人は他人のビジョンに参加するしかないからです。
個人ビジョンが共有ビジョンの源泉になります。
真実でないビジョンは役に立たない
武術の枠を超えた殺戮の現場、生き残りたい真実と名門という看板が激突する
・・・ビジョンとはなにか、涙なしには見られない
吉岡道場の門弟70余名が、武蔵を呼び出したのも「70余名の吉岡一門が百姓に負けるはずがない」と共有ビジョンを持っていたからで、それは足利将軍家剣術指南役の家筋だった吉岡清十郎・伝七郎兄弟の個人ビジョンが源泉です。
名門の子でしたが、リアルなビジョンがあったのか、どうか。
体面を保つために吉岡一門は将に清十郎の子供を立てます。負けるはずがないと驕りがあったからです。
しかし武蔵は、武士のルール(将を取った側が勝ち)に則って、百姓が将を取ることで武士に打ち勝つ偉業をやってしまいます。
背景には、ビジョン対ビジョンの戦いがあり、自己マスタリーの強さがビジョンの強さに反映されていることが手に取るようにわかります。この場合、思い込みの強さが真実の思いに破れるのです。
つまりビジョンはどういうことかが問題ではなく、ビジョンで何ができる、ビジョンとは真実であり、真実でないビジョンは役に立たないということなのです。同時に真実でない自己マスタリーはあり得ないことを示唆しています。
自己マスタリーが共有ビジョンを育み、真実度を鍛錬していきます。個人のビション、自己マスタリー、共有ビションは三位一体の相互依存関係にあります。
ダブルメンターの効果
ひとりの社員(メンティー)に二人の先輩(メンター)がついて、ひとりは業務的なスキル、ひとりは心構えを指導するダブルメンター制度を採用されている会社があると思います。
この制度は効果的ですが、ここでいうダブルメンターは、メンターとなる人①がメンター②を持っていてメンター①は自分の考えを強調せすにメンター②の教えを主に教える体制のことです。
この構造はイエスキリストと信奉者が信者を広めるパターンに多く見られると思います。
メンターの最高峰「ブッダ(お釈迦様)」もそうですが、ブッダは、ブッダ自身さえも疑えと弟子に伝えました。他人の噂や薦めを信じるな、自分が精進して、自分の是々非々を大切にしないさいと遺しています。
吉川英治版「宮本武蔵」では、武蔵は身も心も、傷つき、誰も信じられない心境にあるので、沢庵和尚もメンターになるような存在ではありません。
とても厄介な社員を沢庵はどのようにして高い自己マスタリーの持ち主に変えたのでしょう?
誰も見向きもしない規律が自分を磨く
武蔵が「五輪書」に書き遺した「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。」の言葉通り、規律(=ディシプリン)を身につけます。
つまり、ゴエス(=整理・整頓・清掃・清潔・習慣)のプロセスを自身に習慣化させたのです。自己マスタリーとは、プロセスです。
ディシプリン(discipline)はプロセスから創造されます。
幽閉の目的は、ディシプリンのプロセスを力にすることにあります。
メンターに触れることで、自分の心にあるもの、不足するものを整理させ、次にあるものを使えるように準備させ、不足するものを入手する準備をさせ、それらを日々、手入れ(清掃)させ、磨かせ(清潔)ることを習慣(自分を躾ける)というディシプリンを身につけさせます。「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。」ディシプリンの実践です。
なぜ、できたのでしょう?
個人のビジョンは誰も支配できません。強いることもできません。幽閉したからできたわけでもなく(幽閉したら支配できるわけではない!)武蔵が語りたくなるほどの想い(=メタファーの種子)を理想と現在のギャップから心身で感じた(=イメージ)からです。
理想と現在を伝えたのが、幽閉された部屋に置かれていた書物でした。
ルーティンワークで習慣にする
ディシプリン(discipline)とは「規律」「規律・訓練」などと翻訳されますが、自分は、「習慣(=躾)」と考えます。
一般に誰も見向きもしない目的を達成できる規律ある習慣ということですね。
周活・週活・終活は当協会の基本コンセプトです。
- 周活・・・1日をルーティンワークにする
- 週活・・・1日を1週間のルーティンワークにする
- 終活・・・1週間の生涯のルーティンワークにする
つまりディシプリン、出家僧の生活ですね。
個人のビジョンはイメージ
自己マスタリーのモチベーションになっているのは、共有ビジョンに発展する可能性を含んだ個人ビジョンです。そもそもビジョンとはなんでしょう?
イメージです。人は言葉で考え、伝えますが、言葉に閉じ込めてしまう結果に陥ります。言葉が限界を作り成長の限界になります。しかしイメージはどうでしょう?イメージは言葉の枠に収まりません。枠に収まりきらないのでメタファーを必要とします。
メタファーは言葉のように可能性を閉じようとしないし、メンターを必要と親和性が高いので、自己マスタリーを支援する結果になります。
あなたが個人事業主として生きる場合も、組織の一員、マネジャーとして生きる場合も同様に可能性を開いてくれます。
テレワークはやり方か、在り方か
「テレワーク(=ホームオフィス=ひとり会社)」とは、やり方なのでしょうか、あり方なのでしょうか?
働き方をやり方と解釈するのも、あり方だと解釈するのも個人差です。
この個人差を埋めるのが「共有ビジョン」です。
社員の全体のレベルアップが会社の底力を引き上げる原動力になります。
前述したように、ビジョンというと「どんなビジョンか」と問題視されますが、ことの本質は、ビジョンでなにをするかです。
なにをするかがなくて、どんなビジョンなのかを気にしても意味がないのです。
まとめ
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。」・・・五輪書の記述はディシプリンそのものです。
システム思考は、仏教の教えによく似ています。
一筆で描かれる「円相」は、よく目にすると思います。
「円相」とは、禅の極地を語った「信心銘」に出てくる一句で、中国・隋時代に僧燦という禅僧が「円かなること大虚に同じ。欠くることなく余ることなし」とうたいました。
大虚とは、宇宙のなりたちの源です。
つまり「円とは宇宙の究極の姿に似て、足りないことも、余ることもなく、すべて満たされて完結している」ということです。
無駄なものは一切なく、すべてが揃っていることを意味します。
持続可能な社会の大基本です。
組織にはいろんな側面があります。経理と営業では食い違いがあっても立場が違うから仕方がないという言葉で終わってしまうことがあります。
しかし矛盾のない組織には、「円相」のように矛盾がありません。
すべて辻褄が合うのです。システム思考が機能しているからです。
共有ビジョンを育むプロセスで矛盾が解決されたからです。
必要なことだけがすぐに取り出せる体質に育っていったのは、「ひとりひとりが生き抜くために会社は生き抜く」という不文律が持続可能な生き方として宿っているからです。
足りないことも、余ることもなく、すべて満たされて完結している状態とは、なんと美しいではありませんか?
今回はチーム学習に触れませんでしたが、「五輪書」を学びたいと想う人々を浮かべてみてください。

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